曼荼羅寺案内

略縁起

当山は我拝師山・延命院・曼荼羅寺(まんだらじ)と称し四国霊場第七十二番目札所である。景行天皇のご後裔にして、弘法大師のご先祖である讃岐の国の領主佐伯家一族の氏寺として推古帝四年(五九六年)に建立されました。

はじめ「世坂寺(よさかでら)」と称していましたが、弘法大師が入唐ご留学を終えご帰朝の後、ご請来の金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置供養し奉り、本尊大日如来を勧請して、上は宝祚の無窮を祈り、下は万民の災厄を除去せんがため、殊に御母君玉依御前の佛果菩提を祈らんがため、唐土の青龍寺を模して、大同二年(八〇七年)に起工し三ヶ年の歳月を経て造営されました。そのとき、弘法大師自ら寺号を命名なし給い「曼荼羅寺」と改称せられました。

畏くも寛喜の御帝堀川天皇の下し給いし御綸旨に「曼荼羅寺は仏法興隆・鎮護国家の霊場なるにより未来際を限って寺領を此寺に下し給う」とあります。

当寺もやはり慶長年間兵火のため堂塔および寺宝等を悉く烏有に帰し今の建物はその後に復興されたものであります。

本尊

大日如来

金剛界大日如来です。本堂前面の額に書かれた真言はオンアビラウンケンバザラダトバンで、前半アビラウンケンは胎蔵界大日、後半バザラダトバンは金剛界大日の両部大日の真言である。実は胎蔵界大日如来も本堂向かって右の観音堂にお祀りされています。

御詠歌

わずかにも まんだらおがむ ひとはただ ふたたびみたび かえらざらまし

楽譜 MIDIファイル

縁日(永代経法要)

三月十八日(春の彼岸入日、閏年は三月十七日)

庭園

    • 水莖の庭

IMGP0960
寺伝によれば歌人西行法師が当地・水莖の岡に草庵を結ばれて滞在中に作庭されたと称われ、三尊石より流れ出る「曲水式枯山水」の庭園である。苔と庭木の緑が庭石に調和する美観は絶佳。専門家の鑑定によるも珍しき庭園なる由。

記念物

  • 不老松(平成14年枯れ死)

弘法大師が当寺を造営され寺号を「曼荼羅寺」と改称された記念に御手植えあそばされたものにして今も青々と昔を物語っている。行き届いた手入れにより整然たる樹形とその美観は数多の参詣者を驚かしめ年々全国より巡り来る信者たちには見逃すことのできない日本唯一の名松である。

当寺の庫裏・客殿の前にあって丁度菅笠を二蓋伏せたような形をしているので通称「笠松」と呼ぶ。
樹高四㍍(二間半)、東西十七㍍(九間半)、南北十八㍍(十間)に枝葉を張りて正円形の傘状をなし約二〇〇平方㍍(約二畝歩)の地上を覆っている。主傘部は中央より約二十度の緩傾斜で縁傘部におよび、縁傘部は幅一.七乃至二㍍で蒲鉾状となり地上〇.八㍍にあって主傘部を蛇の目状に団繞して若草萌円頂丘を思わしめる。「今も昔も幼時の樹形や幹の太さに変りはないようです。」と古老は語っている。

IMGP0352平成13年秋、南西側に葉に一部変色が始まる。樹木医の検査により原因はいわゆる松くい虫であることが判明。平成14年夏、伐採される。

平成15年不老松幹に弘法大師像を刻み安置。「笠松大師」と呼称される。

  • 笠掛桜・晝寢石(西行法師遺跡)

当寺の南、火上山の中腹にある水莖庵はかつて西行法師が2年間住居せられた古蹟にして法師は当寺へ暫々参詣し風物をめでられました。境内の桜樹に笠を掛けられ、傍らの平石に晝寢の夢をまどろまれた風情は遠き昔日が偲ばれるものです。

笠掛桜の傍らに西行の歌碑あり下の如し

堂宇、佛像等

  • 本堂

本尊 金剛界大日如来座像
脇佛 不動明王像、毘沙門天像
天井画 平成10年、屋根葺き替えを機に作成

  • 大師堂

弘法大師尊像
大師堂は鎌倉様式と称われているが確たる古文書なく不明。

平成25年改築

  • 観音堂

聖観音立像(昭和三十年四月二日付けにて香川県有形文化財指定を受ける)
木造、桧材一木造、本躰蓮肉共通、像高五尺二寸二分(約一五八㎝)藤原時代作、作者不明

  • 護摩堂

不動明王を中心とする五大明王

  • これら以外に鐘楼、鎮守堂、地蔵堂、愛染堂、仁王門等の諸堂宇あり。
  • 各堂により建築様式異なれども、大体江戸時代以降のものと思われる。
  • その他、客殿、庫裏、茶堂ありいずれも昭和以降の建築である。

道順

  • 順路 七十三番出釈迦寺へ約五百㍍、打戻り、七十四番甲山寺へ約二粁
  • 逆順 七十一番弥谷寺へ約四粁

交通機関

  • JR土讃線「善通寺駅」より四.六粁
  • JR予讃線「詫間駅」より六.八粁
  • 市内巡回バス「吉原停留所」より約六百㍍、「三井の江停留所」より約五百㍍

駐車場

  • 有料 バス4台、普通車20台同時駐車可

宿泊

  • なし

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